仙台はくさい
Sendai Nappa Cabbage

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仙台はくさい(松島純二号) Sendai Nappa Cabbage

宮城県内で栽培されてきた仙台の伝統野菜。

柔らかで甘みも強い松島系白菜のブランド名で、当ふぁーむのものは「松島純二号」。現在多く出回っているハクサイよりも柔らかく、漬物にすると非常に美味といわれています。

生でも甘く、あまり火を通さなくてもおいしく、煮込めばとろりとした食感を楽しむこともできます。仙台ではすき焼きに欠かせないとか(すき焼きが煮詰まるのを防ぎ、たれをおいしく吸い込む名脇役だそう)。

この「松島系ハクサイ」で、仙台はハクサイ王国の地位を獲得します。

ところが、そんな時代も高度成長時代とともに移り変わります。仙台からは貨車を利用し出荷されていましたが、柔らかいためキズが付きやすいこと、病気に弱いこと、そして収穫期間が短いこと、そんなこんな理由で、その後開発された「新しい品種」に取って代わられてしまったのです。

お鍋に入れると、とろけるように甘い仙台はくさい。
その滋味あふれる風味と、味がたっぷりとけでたおつゆは、寒い冬の大ごちそうです。

我が家の8歳坊は、昆布だしだけでコトコト炊いた仙台はくさいが大好物。1/2玉ぐらいはがっつり炊きますが、あっという間に食べてしまいます。
外に近い堅めの部分は、寒さから守ろうと栄養たっぷりです。
お肉やお揚げさんとジャッと炒めて、時にはショウガやニンニク、そしてごま油もきかせて、とろみをつけた中華風にもします。
ご飯が進む一品で、子どもたちも大好き。

さて、「白菜」から見えることを、考えることを書いてみます。

はくさいは「白菜」、と書きます。
そう、白い菜っぱ。

なのに、中身が黄色いのは何故なのか、ご存じでしょうか?

実は、白菜は中国が原産地です。
(英語ではChinese Cabbageがポピュラーな呼び方ですよね)

日本に導入されたのは、明治になってから。
実は意外にも、日本文化にとって比較的新しい野菜なのです。

当初、日本では結球させるのが難しく、うまく結球されたものは明治天皇に献上されたほど。その際の記録では、「純白にしてアクの気なくかつ柔らかなること比なし」と絶賛されたそうです。

そう、「純白」なのが「白菜」で、とても貴重な野菜だったのです!

白菜が日本でブームを巻き起こしたのは、戦時中のころです。

中国大陸に渡った兵士たちが、結球する白い菜っ葉の味に魅了され、それがきっかけで日本でも需要が高まり、栽培されるようになったのです。

ただ、その頃は日本中あちこちで「菜っ葉(アブラナ科)」が栽培されています。それらと交雑するため種取りが難しく、なかなか栽培がうまくいかなかったそうです。

それでも、中国からの種は高価です。

なんとか種が取れないか、試行錯誤の中成功したのが、宮城の松島の離島での隔離栽培だったのです。「松島純二号」はそのときに生み出された品種で、仙台を白菜の一大生産地へと押しあげることになりました。

しかしその後、白菜の消費が落ちてしまいます。
戦後の高度成長期に突入した頃のことです。
家庭でお漬け物が漬けられていたころは、白菜は2玉がセットで売っていたそうです。ところが、食の洋風化や核家族の増加などで消費が劇的に減少したため、1玉どころか、半分にカットして販売するようになったのです。

そのときに、芯が黄色いハクサイが(黄芯ハクサイ)人目を引くことが分かり、以来、黄芯ハクサイが主流になります。

それまでは「白い芯でこそハクサイだ!」という風潮で、黄芯ハクサイは市場から受け入れられなかったというのに、ころっとかわって、今では白い芯のハクサイの種はほとんどが絶版になってしまい、手に入れることすらできない現状です。

以上は、野口種苗研究所さんの「野菜の種、いまむかし」第八回「ハクサイの話」からの抜粋です。ハクサイの歴史について、非常に興味深くまとめられている記事です。

「野菜の種、いまむかし」第八回「ハクサイの話」
掲載誌『野菜だより』2009/秋号/P78,79
http://noguchiseed.com/hanashi/imamukashi8.html

大根もそうですが、白菜も、高度成長期に化学肥料・農薬を大量投入する形での栽培が席巻し、それに対応した種としてのF1種が出回るようになりました。

「おいしい」よりも、「流通に向いているかどうか」が優先され、その市場の需要に応えることが「品種改良」でした。誰を責めるわけでもありません。ただ、社会全体が「早いこと」「効率」を良しとし、求める風潮だったことは認めざるをえません。

「早くて効率的」を追及するあまり、私たちが置き去りにしてきてしまったものは、白菜はもちろん、そのほかの野菜もです。それだけではありません。他にもたくさんの大事で豊かな有形無形のモノを放り出し、走り続けた結果、今の社会になっていると思うのです。

とろけるような仙台はくさいの甘みが口いっぱいに広がる幸せを感じながら、少し寂しくなります。このおいしさを捨て去ってしまうことの、社会としての大きな損失。失ったのは、私たちだけではない。その代償を払うのは次世代です。未来社会に申し訳ない気持ちになります。

放り出してしまったたくさんの豊かさのカケラをひとつずつ「取り戻し」ていくことこそ、人やもの、社会や環境が大事にされる社会への近道だと思っています。

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